本研究の動機説明


 私がグラフィティの魅力に取り付かれたのは中学生の頃でした。

 通学路の途中、踏み切りの隣にあったグラフィティはミステリアスで、

 今でも非常に強く心に焼き付いています。


 その後、高校生になり、グラフィティを実際に描いたことさえありました。

 それは、反社会的なカウンターカルチャーとしての魅力や、

 型にはまらない巨大な絵画の迫力に惹かれ、

 細胞自体が動いたと言えるほど触発的なものでした。



 若い世代にグラフィティの魅力に取り憑かれる者は多いものです。

 若者のそうした革新的なエネルギーを、安易に断罪してよいものでしょうか。



 実際、仙台の街なかでもグラフィティが描かれた壁面や電柱、消火栓などが見つけられます。

 しかし、残念なことに、乱雑に程度の低い作品が密集した場合、荒廃したイメージを容易に植えつけてしまします。

 グラフィティのそんな一面は都市の景観や、建築自体の外観にも強く関わってきます。


 けれども、それだけでグラフィティが街に悪影響しか与えないと決め付けるべきではありません。

 グラフィティのクオリティや題材によっては街の景観を豊かにする可能性をも秘めているのではないでしょうか。

 ライター(描き手)が壁の持ち主と交渉、説得し、描かれた高品質のグラフィティを仙台でも見ることができます。


 都市計画、都市景観が叫ばれる中、我々建築を学ぶものがグラフィティ・ライターと呼ばれる彼らを糾弾するのではなく、

 グラフィティ文化に対しての理解や解決法を模索していくことは、今後必要になるであろうと考え、

 グラフィティを本研究の題材としました。



 願わくは、この研究が街の景観とともに

 後世のグラフィティ・ライターと、街を行く人々の心にアクションを起こし、

 理解のために役立つことを。




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